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境内のご案内

1.本堂
現在の本堂は昭和五十八年、第五十二世良雄代に落慶した鉄筋コンクリート造。間口11.5間、奥行8間、92坪。本尊は中興開山乗弘大徳により南方の小塚より見出された一寸二分(3.6㎝)の聖観音。本堂中央に安置されている大きな仏像は、観音堂に祀られていた聖観音を平成十八年に色彩を修復し、本尊の前仏として現在お祀りしている。
 
2. 観音堂
詳細は不明であるが堂前の灯篭に元禄六年(1693)奉納とあることから、その頃の建立とされる。昭和三十一年に堂全体の解体修理、平成十八年に回廊修理、平成二十七年に外壁塗装修理が為されている。お堂の中央には故・松久宗琳氏作の聖観音が祀られている。壇は護摩壇になっている。
  観音堂
3.大師堂
観音堂と同じく詳細は不明であるが、同時期の建立とされる。堂内には歴代先師の作と思われる弘法大師像が安置されている。
  大師堂
4. 弁天堂
昭和初期、第五十世良清代に縁あって高崎田町より移転した。本堂裏庭山林内の小塚上にあり、かつてはその周囲に堀を巡らせてあったが、現在は枯れている。平成二十五年に台風により損壊し、同年十月に再建している。
  弁天堂
5. 大門
文政元年(1818)第三十六世良恵代に造立。山号額「花敷山」は明治十六年(1883)に高野山円通律寺栄厳和上による揮毫。格天井の絵画は平成五年に奉納されたものである。
大門より南方に参道が伸びており、表門(石門)へと繋がる。参道両脇にはかつて九ヶ寺が塔頭寺院としてあった。その名残を示す両脇の石垣には、松や百日紅、ツツジ等が植えられている。現在、参道東側は第二駐車場に、参道西側は墓所になっている。
  大門
6. 鐘楼
東日本大震災により天保十二年(1841)建立の旧鐘楼に亀裂が入り、平成三十年、第五十三世良弘代に再建。梵鐘は昭和十九年に供出され、昭和五十年に再鋳している。毎日6時12時18時に衝かれる。大晦日には参拝者による除夕の鐘を行っている。
 
7. 少将桜
前橋城主少将酒井忠清公遺愛の枝垂れ桜。公が慈眼寺の桜を愛し、境内地より一株を城内に移植したが何年を経ても一輪の花も持たず、毎夜「慈眼寺へ帰りたい」と公の夢枕に立って泣いたという。そこで公がこの桜を寺に返したところ、寺に戻った桜は他の桜と共に毎年見事な花を咲かすようになったという事である。そこで公はご自身の位階を取ってこの桜を「少将桜」と名付けた。故に別名「夜泣き桜」とも言われる。
詳しくは、少将桜の伝説をご参照ください。
8. 歴代住職墓所
中興開山第一世乗弘大徳より第三十世慶範までの歴代住職が祀られた墓所。平成十九年第五十三世良弘代に修復、整備が為された。第三十世以降の歴代住職は観音堂横の墓所に祀られている。
 
9. 芭蕉句碑
文政七年(1824)三月の造立。高さ3尺2寸。
「木の下は 汁もなますも さくらかな 翁」
元禄三年(1690)刊行の『ひさご』に収められている芭蕉の句である。
 
10. 江原源左衛門重久の墓
群馬県指定史跡。源左衛門は江戸時代初期に滝川地方の新田開発の中心人物で、先祖は武田勝頼の遺臣とされ、父の代より滝川村に土着した。当時荒野だったこの地域を開発するために代官伊奈忠次に進言して天狗岩堰の末流を改修し、慶長十五年(1610)に竣工にこぎつけた立役者。その功績により苗字帯刀を許され、瀧村を賜り名主となる。 正保四年(1647)逝去。生前の寛永十四年(1637)に逆修塔※を建立している。

※逆修とは生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆を逆修塔という。
  江原源左衛門重久の墓
11. 隠れキリシタンの墓
墓石上部中央に十字架が刻まれ、その下には「延宝元年(1673)七月二十九日 妙霊禅定尼」と戒名が彫られている。旧境内地(現・天田氏屋敷)にあった多数の墓石を現在の場所に移した際に発見された。
 
12.永代供養塔「桜華苑」
永代供養塔「桜華苑」はしだれ桜のもと、お預かりしたお骨を寺が永代に亘り供養をして参ります。
詳しくは、永代供養塔「桜華苑」についてをご参照ください。
 
13. 庚申塔
約100基の庚申塔と諸尊像がお祀りされています。滝川地域のみならず周辺地域の多くの庚申塔を地域ごとに並べ直し、平成二十一年に現在のような形に合祀されました。
詳しくは、庚申塔群についてをご参照ください。
庚申塔
Eternal memorial grave

永代供養墓「桜華苑(おうかえん)」

永代供養墓という選択

現代社会における生活形態の変化は著しく、近年の少子化・核家族化・人口の流動化等の影響により、
これまでのようにお墓を建立しても、将来の維持管理が出来なくなってしまう状況が増えてまいりました。
このような世相の変化の中、慈眼寺では檀信徒の皆様の菩提を末永く安らかに弔うことを願い、
平成17年に永代供養墓「桜華苑」を建立致しました。

末永くお守りいたします

「桜華苑」はしだれ桜のもと、お預かりしたお骨を寺が永代に亘り供養をして参ります。
  • お墓の跡継ぎがいらっしゃらない方
  • お墓が無縁になってしまうのが心配な方
  • 子どもたちに負担を掛けたくない方
  • 生前に自分の墓所を求めたい方
このような心配をしていらっしゃる方は、是非お気軽にご相談ください。
なお、納骨に際して、今までの宗旨・宗派は問いませんが、慈眼寺の檀家に御入檀いただきます。

慈眼寺の永代供養の特長

供養墓内の霊位を 永代にわたり追善供養します。
  • 墓所一区画の納骨は、原則としてご夫婦の二霊位を基本とします。
  • ご夫婦共に三十三回忌を目途に、供養墓に合葬致します。
  • 三十三回忌後、遺骨を供養墓に移した後は、墓碑を取り去り墓所を寺にご返却頂きます。
  • 墓所一区画は、分譲(永代使用)ではありません。
  • 墓所には骨壺の状態で納骨します。三十三回忌以前であればご移動、ご返却が可能です。
  • 供養墓には遺骨を骨壺より取り出して納めます。御骨のご移動、ご返却は出来なくなります。
  その他、詳しい取り決め等については、お問い合わせください。

お申し込みについて

 
お電話・メールにてお気軽にご連絡ください。

※お電話の場合は、9:00~17:00の間にご連絡ください。
※生前予約も受け付けております。

 
慈眼寺までお越しいただき、ご説明・ご案内・ご相談をいたします。

※必ず事前にご来院のご連絡をください。

 
ご見学・ご相談の後、ご家族の皆様でご検討いただき、
後日、改めて慈眼寺までお越しいただき、墓所区画申込、及び御入檀手続きを行います。
Koshinto group

庚申塔群(こうしんとうぐん)

百基の石塔

慈眼寺の境内西側、忠霊塔の裏には約百基の庚申塔と諸尊像がお祀りされています。
その多くは江戸時代中期頃から明治時代に建立されたもので、当初よりこの場所に祀られていたわけではありません。
各村々の街道筋に祀られていたものを、明治政府が庚申信仰を迷信と位置付けて撤去を進めたことや街道の拡張整備などを理由に、
ここ滝川地域のみならず周辺地域の多くの庚申塔が慈眼寺に移転されたようです。

鬱蒼とした茂みの中で無造作に並べられていたこれらの塔は、周辺一帯を整備して地域ごとに並べ直し、
平成二十一年に現在のような形に合祀されました

庚申塔とは

庚申塔は庚申塚とも言い、中国の道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。
道教の教えによると人の体内には三尸という小さな虫が住んでいて、宿主が死ぬと自由に遊び回れるようになるため、人が早く死ぬのを待ち望んでいると言われています。では三尸は何のために人の中に居るのかと言いますと、この虫は六十日に一度の庚申の日の夜、宿主が寝ている間に体を抜け出して天に昇り、天帝に宿主の悪事を報告する役割があり、そうしてその人の寿命を縮めるのだそうです。そこで人々はそれを避けるために庚申の日の夜に皆で集まり、寝ないで夜通し勤行をしたり宴会をしたりすることで、三尸を体内から出さないようにしようと考えました。この集まりのことを中国では「守庚申」といい、唐の時代の中頃から末にかけて広がったものが日本に伝わり、「庚申待」と名を変えて平安時代に貴族の間で流行しました。民間では江戸時代に入ってから地域で「庚申講」という集まりをつくり、この「庚申待」をする風習がひろまりました。
この集会を三年十八回続けた記念に建立したものが庚申塔(正式には庚申待供養塔)です。

庚申塔を建立した人々

平成二十一年に行われた庚申塔群の整備に際して、石塔に彫られている建立日などの情報を調査した結果、約八十基は施主名と村名を解読することが出来ました。さらにその内の約四十基については現在の子孫に辿り着くことが出来ました。
【地域の内訳】
  • 下滝村4、上滝村20、榎町4、下斉田村9、八幡原村5、中島村13、
  • 西横手村2、宿横村手1、下大類村3、南大類村3、中大類村1、
  • 綿貫村3、柴崎村2、北矢中村1、岩鼻村1、高崎南町1、
  • 上ノ手村1、玉村宿1、無記名23
【共に祀られている諸尊像等】
  • 地蔵菩薩像3、観音像、馬頭観音4、
  • 青面金剛、若宮八幡大神、猿田彦大神、各種供養塔5